昨日は2月3日、節分の日でした。
「浄土真宗では、節分をどう過ごすの?」というご質問をいただいたので、今回、浄土真宗における節分の過ごし方を考えてみました。
「節分」とは、「節」を「分」けるという言葉の通り、中国発祥の季節を区分する方法のことです。
また、この時期におこなう「豆まき」は、もともと中国で流行した疫病や災害を追い払うための儀式です。
これらが日本に伝来し、徐々に宮中行事に取り入れられ、いまでは立春の前日である2月3日に、「鬼は外、福は内」と歌う除災招福の行事として定着しています。
つまり、日本の節分行事は、中国発祥の習俗が起源となります。
このことから、節分は、仏教の思想とは直接的には関係ないものと言われます。
とりわけ、浄土真宗の教えは、現世祈祷や俗信にとらわれないものであるため、節分行事を積極的に行う必要がありません。
浄土真宗にとって、節分はあまり馴染みのない行事といえるでしょう。
にもかかわらず、お寺では古来より節分行事を催してきました。
中世・近世は、政治権力者と仏教集団との関係が深かったことから、次第に今のような節分の豆まきがお寺でも行われるようになっていったようです。
「浄土真宗だから節分はしない」と安易に否定ができない状況があることもまた事実なのです。
こうした経緯からか、すでに、浄土真宗のお坊さんによって、節分をどう過ごすべきかを考える記事は数多く存在しています。
例えば、コチラ↓
彼岸寺HP「節分と仏教の関係は?」
https://higan.net/somosan/2012/02/setsubun/
コチラは御法話です↓
本願寺HP「鬼のこころ」
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/min140510.html
多くの記事で共通することは、「鬼」を自身の「煩悩」と捉える点です。「鬼は外」ではなく、「鬼は内」と考えます。
最近では、自らが鬼の立場になって考える事例を題材に、浄土真宗のお坊さんが独自の味わい展開する場合もあります。
(出典:「2013年度 新聞広告クリエーティブコンテストhttps://www.pressnet.or.jp/adarc/adc/2013.html)
このように、鬼を外に見るのではなく、内にある自身の有様として見つめ直すところに、浄土真宗としての節分の意義があります。
さて、私もこれにならい、むかし、豆まきをしている友人にそのような説明をしたことがあります。
ところが、友人の反応は、次のようなものでした。
「言いたいことはわかる。けど、もっとポジティブな解釈はないの?てかそもそもそんな深く考えて豆まきしてないし。」
私の説明が下手だったせいで、あまり心には響かなかったようです。反省です。
実際、TPOというものは重要です。仲間同士でワイワイ豆まきを楽しんでいる際に、「鬼は外だなんて、おこがましい。鬼こそ私自身の有様である」と主張したところで、空気を読んでいない発言であることは自明です。
もちろん、人によっては、「鬼は内」という浄土真宗的な解釈を聞くことで、その教えに関心を抱く場合もあるでしょう。本来、それが浄土真宗にとって理想的なあり方です。
しかし、節分行事に愛着を持つ人や、わたしの友人のようにそもそも深く考えずに行事を楽しんでいる人たちに対しては、よりライトで楽しい解釈の方が適しているのかもしれません。
さらに言えば、従来の「鬼は外、福は内」という常套句を変えずそのまま使用し、味わい方を変えるという方法も、斬新なのではないかと考えます。
そこで、友人の質問に応えるべく、鬼をポジティブに解釈している例を考えてみました。
親鸞聖人は、鬼についてどう考えているのかというと、先述のように、「煩悩」と捉える場合がありますが、もう一つ着目すべき説示に、「鬼神」という表現があります。
これは、目に見えない神さまのような存在のことです。神さまといっても、キリスト教でいう神さまとは異なり、六道の境界(迷い)の一つである神さまのことですが、ややこしくなるので、「目に見えない不思議な存在」くらいの意味で止めておきます。
親鸞聖人は、目に見えない不思議な存在(鬼)を次のように述べます。
天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり
願力不思議の信心は 大菩提心なりければ
天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり
念仏称える者は、善い鬼に見護られ、悪い鬼を寄せ付けない、という意味です。
この説示を大切にしますと、一概に「鬼は内」ではありません。むしろ「鬼は外」にいて、念仏者を護ってくださっています。これは同時に、護られているという「福が内」にあるということでもあります。
「善い鬼が外で守ってくださるお陰で、私はいま福を頂いている」と味わうところに、一味違った浄土真宗における節分の過ごし方があるように感じます。
ですから、「鬼は外、福は内」のまま過ごすことも一応できるでしょう。
以上、「鬼は内」として、自らの煩悩を見つめる契機として考えることは、浄土真宗において尊い営みです。
今回は、これに加え、よりライトでポジティブな過ごし方として、「鬼は外」として、鬼神に守られていることへ感謝する営みもまた可能ではないかと提案します。
当然、浄土真宗と関係なかった風習を、浄土真宗的に解釈しようとしている時点で、無理が生じることは否めません。
そのことを承知の上で、浄土真宗における節分の過ごし方を愚考したのでありました。
『築地本願寺の隣にあるお寺 法重寺』
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